現在は、輪島以外の地で特産品となっているが、元来は輪島がルーツという産物に素麺(素は白の意)がある。漆器に取って代わられるまでは重要な産業であった。実は、戦国期に畿内に輪島の名を知らしめたのは索麺であった。天文年間(1532〜1555)後半以降、輪島索麺と呼ばれ、幕府・朝廷や大坂本願寺へ贈られた。天皇に近侍した女官は「りんたうそうめん」と記録している。都人は輪島をワジマとは読まずにリントウと読んで、輪島素麺も「リントウソウメン」といっていた事がわかっている。
能登の麦屋節は輪島素麺の粉ひきの作業歌であった。越中五箇山の麦屋節のルーツとも言われるが、それには輪島出身の「おさよ」という娘の悲しい物語がからんでいる。市内に「おさよ塚」が建てられて、能登麦屋節の由来が説明されている。
【幕末に衰退し、他所へ技術流出した素麺生産】
中世には、「素麺座」が組織されていたが、1587年(天正15年)に前田利家が鳳至・河井の両町に対し「素麺座」を廃し、「十楽」とすることを布告した。その後近世に入って素麺生産は一層盛んとなり、「輪島に素麺を産す、北陸の名産なり云々」というような記述の文書も残っている。
全盛期の1800年代初め(文化年代)には、鳳至町で「素麺家」70軒余を数えるほどだった。各種品質のものが生産され、「白毛(しらが)素麺」という有名銘柄もあり、前田家の食用や進物用に用いられた。一般人の間でも、輪島素麺は土地の名産として進物用に使用された。
しかし、その原料となる小麦・油などは、生産量の増大に従い越後や越前から大量に移入することになった。食料としての領外移出が藩の食料政策と抵触することにもなり、幕末には品質の低下や技術者の流出などによって衰退していったようである。
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