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第9話/近世の輪島町
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輪島学
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■近世の輪島町
    ・・・・200年前は鳳至町、河井町、海士町、輪島崎村だった
 18世紀後半(安永・寛政の頃)には、輪島町は鳳至町、河井町、海士町、輪島崎村からなり、「輪島4ヶ所」と一括りにされ、戸数1000余で、湊は繁昌し、四の市や九の市なども開かれていた。さらに1855年(安政5年)の資料では、河井町と鳳至町の両町で戸数約1800となっており、発展が著しかったことがうかがえる。

【行政区画は町ではなく村だった】

 しかし、藩政期の行政区画からは村であった。加賀藩では、こうした地域を「町立」あるいは「宿立」と読んでいたのであるが、一般には在郷町と言われ、町と農村の要素を兼備していた。例えば、町奉行ではなく、御郡奉行・十村の支配を受けた。一方で、地方中枢的機関が置かれ、例えば1864年(弘化3年) 海防手当ての急務のために、郡奉行所が現在の輪島崎日吉地内に設けられた。河合町には御収納蔵屋敷も置かれた。

【町人ではなかった住民の身分】

 村である限り、住民の身分は町人ではなく、百姓と頭振であった(両者では、百姓の格が頭振より上とされていた)。地方役人も町方に比して簡略で、肝煎・組合頭(天領では庄屋・組頭)がおかれ、通常肝煎の家が役宅となった。

 1873年(明治6年)には、行政的に上記4地域を合せて輪島町と称するように決められた。