南北朝時代以後、長氏が大屋荘の中心地帯から交代した後、現在の輪島市中心部を本拠に、奥能登に勢力を誇ったのが温井氏である。温井氏の出身については資料がなく、不明である。1385年(至徳2年)東福寺栗棘庵(りっきょくあん)を開創した覚山空性(かくざんくうしょう)が祖と考えられ、「温井備中守」である。輪島との関わりが確実な、最初の温井氏は俊宗である。俊宗は、1476年(文明8年)に重蔵宮講堂を建立したのをはじめ、輪島崎天神社を再建し、1492年(明応2年)別所谷八幡神社に息災延命などの祈祷を求めている。
【温井氏を滅ぼした前田利家】
温井総貞(ふさふだ)のときが温井氏の全盛期と言われ、守護畠山義続(よしつぐ)の七尾城の主導権を握ったが、やがて失脚し、一族は加賀へ退去した。その後、温井景隆(かげさだ)のときに七尾城に復帰したものの、1582年(天正10年)前田利家らとの荒山合戦で滅亡した。その前年の1581年(天正9年)、前田利家は、織田信長の対上杉政策によって能登に進駐し、能登一国を領有して七尾に居城することになるのである。
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