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第2話/輪島のいわれ
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■輪島のいわれ・・・・倭の国から輪島へ
太古・古墳時代の頃、日本は中国などから倭と称されていた。能登半島は日本海に大きく突き出した地形のため、古来、大陸からの多くの者が、渡来者として、あるいは漂流者として能登にやってきた。そのとき能登半島の先端を見つけたとき、「倭の島」といったのだろうか? これが、現在の輪島の名の由来とも言われる。
「輪島」の地名が始めて文献上に見えるのは、戦国時代の1524年(大永4年)5月である。すなわち、重蔵神社の造営が行われた時の棟札に「大屋庄輪島河井村」と見えるのが初めてである。
↑重蔵神社の標柱と狛犬
↑重蔵神社の本殿
↑重蔵神社/能登半島地震で周囲の石柱の柵が倒壊
↑重蔵神社/能登半島地震で鳥居が倒壊
■能登のいわれはアイヌ語?
アイヌ語で「ノト」とは岬や顎を意味する。確かに能登半島は本州から日本海側に出っ張った突起物の地形である。余談であるが、能登半島は能登島という島であった可能性が高いとの説もある。万葉の歌人達は現在の小松あたりから舟で七尾に行ったという記録があるらしい。
(出典;樋口清之;日本人の知恵の構造、角川文庫、角川書店、昭和58年)
しかしこのことについては近世から種々異論もあるようで、昔の能登郡は今の鹿島郡で、能登の海は七尾湾のあたりを指したから、アイヌ語の岬を意味するという説は当たらないとする文献や、七尾湾は咽喉のような形をしていて、咽喉は「飲み門(と)」の略で、「門」は水門(みなと)のように物の入るところをいい、潮を呑み込む海門を意味しているとの文献もあるとのことである。
(出典;谷川健一著、北陸地名の謎(石川県)、けんせつほくりく、1999年9月号)